渡辺清次郎ホーム

撮影=鈴木信幸(
菊名駅周辺)

2-70年代後半の到達点

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70年代後半の争議の到達点は何か

渡辺清次郎

80年代の初頭でもあるので、七〇年代後半の争議の到達を一定、明らかにする必要があると思う。

昨年一年間で浜田精機やイースタン・ディーゼルなど大型倒産争議の勝利をはじめ、多くの争議が解決をした。特に、闘いが前進したのが婦人争議と倒産争議であると言えよう。これらの闘いで、背景資本に責任をとらせる闘い方が確立し、また婦人争議を婦人運動一般とせずに、労働運動とする方針で闘い、地域、産別に急速に闘いが広がった。これらの闘いの広がりの中で、職業病解雇問題で労働行政に迫る闘いがつくり出されてきた。

最近の新しい状況として、六十年安保以降職場の闘いがむずかしくなっていた大企業の労働者が差別反対などの闘いで争議団共闘に加盟があいついでいることです。この中で、背景資本と闘っていた浜田精機と全造船三菱重工支部の連帯が生まれるなど大企業の労組と関連労組の共闘も生まれてきている。なによりもかつて争議団が「大企業の中小企業支配の横暴に対する闘いだけでは不十分だ」として「大企業の職場から闘いを起こし、共闘して闘う」ということであった。この闘いが八〇年代初頭に、ともかくできそうな状況になってきている。このような情勢を生み出した要因として、背景資本に迫る闘いなどを通じて、地域、産業別を越えた闘いを前進させたからだと思う。

では具体的に、倒産争議ではなぜ、決着がついたと言えるのだろうか。例えば、全金浜田精機支部の勝利は、だれもが認めるだろう。だが、これがすべてだとは言えない。いろいろ論議はある。たとえば、墨田機械の闘いで「結果に対する闘いでなく、原因に対する闘いを追求しよう」と提起したことがある。残念ながら、この闘いは単産などを含めた共同闘争に発展させることはできなかった。墨田機械は、この闘いの一定の段階で自主生産に入ったが解散をせざるをえなかった。このことに照らして、浜田の闘いは、どうだったのか、という問題提起である。このとらえ方は、一面的だと思う。しかし、自主生産争議は、個別の争議団の闘いとして突破できない壁がある。それは、この闘いにふさわしい共闘体制や資本面、あるいは人の面や販売ルートをどうつくっていくのかが残された課題だと思う。だからといって、墨田機械の闘争の重要さが否定されるわけでもない。改めて、墨田機械の闘いについて、役割や性格を総括してみたいと考えている。倒産争議ではまだ、多くの問題があるとしても、正路喜社の闘いでは「組合員をおだてて闘わせている」と批判もでていた。しかし、この二十年間で事実上、破産法下で初めて大映争議が勝利して以来大きく前進してきた。しかし、会社再建などで多くの問題が残っている。これらの問題について研究する必要があると思う。

また、婦人争議の面では、今まで、一人争議としてぽつりぽつり出され、婦人運動一般として運動を進めてきた。この状態変えたのが七六年の泊り込み学習会であった。この学習会で「婦人の解雇は、人減らし『合理化』の尖兵的な役割を果している」と位置づけたことである。「この解雇を許したら、いっそう職場で『合理化』人減らしが進む」として反合理化の闘いにすることを明確にし婦人運動一般でなく労働運動に変えたことである。このことによって、コパルや立中さんの争議で勝利させるだけでなく、運動そのものが大きく前進をし、大変幅の広い闘いとなった。(つづく・文責=編集部)

《争議の焦点》第2号(1980年2月12日)掲載