渡辺清次郎ホーム

撮影=鈴木信幸(
菊名駅周辺)

65年の活動経歴

■第一期■1950年~1974年

《細川入社から細川争議発生まで》

1950年(昭25年)15歳で細川活版所(文選職場)に入社
  • ◆朝鮮戦争・レッドパージのあった年。細川でも5人解雇(印刷出版関係では160名)。続いて小野塚敬一氏の入社・解雇。(その後、中央地区協結成。全印総連東京地連書記長・全印総連本部副委員長を歴任)組合の立ち直り、前進のなかで入社二年後に早くも青年部長に就任。57年(昭32年)には井越委員長・木村書記長のもとで執行委員(情宣部副部長)に選出され、以後藤原二郎・大多和肇・上村敏哉ら多くの青年活動家と共に生涯の労働運動が始まる。
  • ◆58年(昭33年)の全印総連青年婦人部結成で初代部長に就任。
    (*この青婦部活動で妻・頼子さん(大阪高速オフセット印刷労組)と出会う。)
  • ◆「おいこら!警職法反対」「無実の被告を救え!松川事件勝利」「勤評反対」のたたかいと共同製本・小薬印刷・主婦と生活争議に参加。そして、60年安保闘争へ。
1960年(昭35年)青年行動隊を組織して「安保反対」の連日の国会行動。
  • ◆歴史的な安保闘争に対するまき返しとして、労働運動に対する反共分裂攻撃が始まる。細川でも「弥生会」というインフォーマル組織がつくられ、組合分裂が本格化する。木村委員長・上村副委員長・藤原書記長の体制で活動を強化。凸版印刷労組の全印総連脱退、凸版板橋・東京印書館労組の分裂と続く。
  • ◆63年(昭38年)4月に第二組合(細川新労組)を結成。「統一のために手をさしのべよう、その手に唾をされても手を拭いて、またさしのべよう」(木村委員長発言)と新旧再統一をめざす「要求こそ力」の運動を開始。
1964年(昭39年)から1972年(昭47年)まで産別・地域共闘で活躍。
  • ◆全印総連中央地区協の議長、中央区労協の副議長~事務局長として活動。
  • ◆職場では「要求こそ力」の運動を基調に、「700人集会活動」(第二組合員との対話活動)を軸に新旧両労組の共闘に努力。66~67年(昭41~42年)には統一ストを実現。
  • ◆産別・地域では「全印総連・東京印労・出版労連の三者共闘」「マスコミ・全国一般・金融等の地域共闘」そして「ベトナム反戦」へ。67年(昭42年)には「美濃部革新都政」を実現。
  • ◆62年(昭37年)に結成された東京争議団共闘は議長・小早川(日本信託)事務局長・佐藤(正路喜社)という中央区コンビ、正路喜社を事務局に置いて活動。当時は中央区労協も同所を活動センターにしていた。ここから東京争議団共闘とのつき合いは始まっていた。
  • ◆69~70年(昭44~45年)の春闘は「21万印刷出版のたたかい」「一人が動けば情勢が変わる」と盛り上がる。印書館闘争が勝利。
  • ◆72年(昭47年)に草加新工場移転完了。活動の舞台が東京・中央区から埼玉・草加市に移る。
  • ◆73年(昭47年)光村原色版印刷と「業務提携」。杉江新社長は「印刷業界の第三勢力(大日本・凸版の二大印刷独占に対抗)をめざす。悪名高い組合と対決する」と組合敵視をむき出し。印刷再編「合理化」のもとで東海銀行をバックにした光村資本は「賃上げとセットに2年間の平和協定、夜勤導入・機付定員削減・組合活動制限等の合理化案」を提案。当初は新労組も反対、印刷七社九労組を中心に支援共闘を結成。8ヵ月間共闘してたたかうが、会社の支配介入で新労は「大綱受入れ決定」。新労を脱退した34名が全印総連に加入。
■第二期■1974年11月~1983年11月

《東京争議団共闘議長として》

1974年(昭49年)7月25日に93名の指名解雇。細川活版争議が発生。
  • ◆74年(昭49年)11月の東京争議団共闘総会で井川議長(報知印刷)石川事務局長(エスエス製薬)のあとをひき継ぎ議長に就任。松尾洋(日本電子)吉田貞夫(浜田精機)小林雅之(カコストロボ)菊地義弘(吉野石膏)遠藤修(テレビ東京)と五人の事務局長とコンビを組んで9年間、東京争議団共闘の活動をリード。
    • ―議長は山本武司(日本フィル)中山森夫(沖電気)二瓶英夫(東京電力)田畑文雄(雪印)加賀谷武喜(明治乳業)小関守(明治乳業)にバトンタッチ。
  • ◆細川活版争議はマスコミ共闘・東京地評・全印総連・中央区労協中心の支援共闘会議及び勝たせる会の支援で79~81年(昭54~56年)に大きく前進。都労委和解決裂のあと、「指名解雇シンポジウム」(80/7/28~29)「11・30草加一万人大集会」(80/11/30)を成功させ、「都労委勝利命令」(81/1/14)を勝ちとる。
中曽根臨調・労働戦線右傾化の「激動の80年代」を闘い抜いた
    • ◆総評・単産と東京地評・地区労の熱い支援が強まり、81年(昭56年)には日航(4・6)日本フィル(6・3)東京電力(10・13)沖電気(10・23)日立(10・30)が相次いで決起集会を成功させた。
    • ◆「東京争議団共闘20年・東京総行動10年」の節目。東京争議団ニュース創刊号(1981/3/10発行責任者:小林雅之)には、「東京の労働運動が生み落した鬼っ子は世間に認知され一人前になったのだろうか?しかし鬼っ子はあくまで鬼っ子で変わらない。この鬼っ子への支援をお願いする」(渡辺議長)「恐れを知らない挑戦こそが日本(東京だけではない)の労働運動の質を発展させる原動力」(小島成一弁護士)の一文が載る。「一人の首切り、一切の差別を許さない」という旗印をかかげ、ど根性路線で20年間たたかい抜き、240争議を解決してきたことを紹介。
    • ◆82年(昭57年)には「3・19日フィル・細川合同決起集会(日比谷野外音楽堂)の成功で「中労委和解案」提示(82/7/15)をひき出す。
    • ◆83年(昭58年)2月15日、遂に中労委和解が成立。和解内容は①希望者全員(21名)の職場復帰②解決金(3億7千万円)の支払い

*3月18日に椿山荘で「細川闘争勝利解決報告集会」を開催。

■第三期■1984年~

《細川争議解決以後の活動》

1983年(昭58年)2月15日、細川活版争議は中労委和解で解決。その後は、元議長・争議研究会の立場から活動。
  • ◆沖電気支援を中心に活動。電機(東芝アンペックス・日立・サンスイ等)電力(東電・中電・関電)造船(佐伯・石川島・三菱重工等)マスコミ(日フィル・リーダイ・テレビ東京・大日本印刷・凸版印刷等)そして日航・芝信・日産厚木・東伸小川・チトセ・パラマウントなどあらゆる争議に関わる。「神出鬼没」でひょっこり現れ、きついアドバイス。
  • ◆スモン・カネミ・水俣病など公害被害者との連帯行動、労災・職業病関連争議の重視・決起集会開催、自主再建闘争・パラマウント工場まつり、原発問題・福島の現地シンポ開催、など創造的な運動を展開。何より国鉄分割民営化・1047名の解雇問題を労働運動の最重要課題に位置づけて前進に努力。運動の深部のところで大事な役割をはたす。
  • ◆東京争議研究会の活動(小林雅之さんコメント)―-ちょうど、時代的には労働戦線の右傾化からナショナルセンターの再編成へと続き、争議運動にも困難な影響をもたらした時期。しかし争議運動が労働運動本体に対して、これまでとは違った質的影響を及ぼす時代にもさしかかった。いわば「非正規軍」と見られた争議団・争議組合が「正規軍」に影響を与える時代であり、そうした時期に立ち上がった「東京争議研究会」は、そうした目的意識的な研究課題に取り組んだ。中心となったメンバーは今や多くが泉下に逝かれた人たちで、元総評常任幹事・清水明、元東京地評常任幹事・市毛良昌、弁護士・小島成一、音楽家ユニオン・佐藤一晴の各氏と争議団OB・現役を結びつけながら中心的な役割を果たす。「総行動方式」「国・独占企業との争議」「倒産争議~人権差別争議~一人争議」などなど、日本の各種多様な労働争議をその本質から総合的に分析評価するという、「争議版解体新書」ともいえる争議研究に仲間と共に取り組む。その成果は二十数回に及ぶ研究集会、研究内容の出版(労働旬報社など)として多くの労働運動活動家と争議団に多大な影響をもたらした。
■第四期■1990年~

《渋谷地域で活動》

生まれ、育った渋谷地域で活動した時期
  • ◆苫孝二渋谷区議事務所の所長として活動。1992年6月から後援会ニュースにコラムを執筆。2010年9月まで630号を連載。
  • ◆はたがや協立診療所の建設運動をすすめ、2000年12月に開所。また2011年区議選で田中正也さんを渋谷区議会に送り出す。
  • *今回のいっせい地方選挙で苫・田中区議の再選をふくめ6名全員当選をはたす。
  • ◆地元地域の活動と並行して、1047名の不当解雇撤回を求める国鉄闘争では全国各地を駆け回り、国労闘争団の全国的な立ち上げに尽力。2003年の最高裁判決敗訴の困難な時期には当事者の関係修復・団結回復に努め、2011年7月の和解成立まで貴重な役割をはたす。
  • ◆また鈴木信幸解雇事件(2008年9月~2011年9月)では支える会会長として活動し解決に貢献。東京争議団共闘「50周年記念集会」(2011年5月)には歴代議長と共に顔を出し、たたかう仲間を激励した。

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胃がん・肺がんとの闘病生活を続け、そして安倍政権の暴走にストップをかける総選挙の一票を投じたあと、遂に力尽き2014年12月30日、79歳で逝去。

文責:清水 瀞